【国家権力の作法】
さて、国家権力同士の権力の分立・均衡を「横」の関係だとすれば、国家と個人の関係において、いわば「縦」のルールがある。それが、国家の個人の道徳観に対する中立性の要請である。国家は、ある特定の道徳観や思想にコミットし、奨励してはならない。典型的な例としては、日本国憲法20条にも定めのある政教分離である。なぜなら、国家が特定の価値観に「お墨付き」を与えれば、それ以外の価値観は“二級”となってしまうが、この社会に“二級”として劣後して扱われるべき道徳観や世界観など存在しないからである。「個人」であれば、どのような価値観を奉じていても独立対等に扱われる。これが立憲主義の目指した共生のプロジェクトだ。ここから、国家権力の活動する公的領域と我々個々人の私的領域を区分するという発想が生まれる。我々は、私的領域(個々人の「善き生き方」の決定)においては、他者加害にわたらない限りどのような道徳観に基づいて行動することも自由であり、故に、公的領域(「良き社会」の決定)における決定の場面では、国家は、特定の価値観を押し付けたりすることのないよう道徳的に中立であることを求められる。道徳的中立性の侵犯は、間接的に、我々個々人の私的領域への侵犯なのである。
個人の自律の核心は、「自己の生という物語の作者は自己でしかない」というところにあるが、国家がある特定の道徳観にコミットした決定をするということは、この物語を国家や政治権力に書かれてしまうのと同じことになってしまう。あくまで個々人の「善き生き方」は私的決定であり公共的な決定でありえない。国家が道徳的にある価値観にコミットするということは、善き生き方の決定を国家が代行するのに等しい。
【道徳的中立性を捨てた道徳的国家】
先日、文科省が、道徳教科書の検定で、教科書の物語の作中に「パン屋」の記述があったところ、「教科書全体で指導要領にある『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りないため」「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」との検定意見を付した。これを東京書籍が「忖度」して、パン屋の記述を「和菓子屋」に変更したという事例である。これには、忖度の問題やパン屋か和菓子屋かという話もあるが、それ以前に、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という特定の道徳的価値観を国家が教科書検定を通じて注入するということが大問題である。これは、明らかに“愛国心的”という特定の道徳観への誘導であり、国家の道徳的中立性に反する。具体的に、「記述を変更する」という明白な効果まで生じている。他にも、改正教育基本法によって幼稚園においても愛国心についての評価が行われる等々、すべて国家の道徳的中立性の弛緩と私領域への侵犯という文脈に連なっている。当然、愛国心自体を非難しているのではない。愛国という特定の道徳観は、私的領域において、各人が自由に保持すればいいものであるし、愛国心の有無の押しつけは、個人の人格の根源的対等性にも背馳する。なにより、“愛”は強制されるものでなく醸成されるものである。公的領域における良い社会の構築によって、人々の愛国心を獲得すべき筋の話である。
【社会システムとしての公私区分の崩壊】
さらに、実生活上の公私の破壊と侵犯がある。共謀罪(テロ等準備罪)だ。政府は、過去三回廃案になった共謀罪に絞りをかけたというが、組織的犯罪集団に「一変」するかどうか、共謀(計画)の有無・中身を検知するには、監視の目や耳を私生活に溶け込ませなければ実現できない。政府がその批准を共謀罪法案制定のよりどころとするTOC条約20条に「監視等」「必要な措置」を講ずる義務を締約国に課しているのは、まさに監視社会への政府の意思を端的に示す証左である。
繰り返しになるが、「公」の豊かさは「私」の豊かさに依存する。公権力による監視の拡大は、公私の悪しき同化、境界線のなし崩し的無力化を生む。委縮した「私」領域からは多様性や豊かさは消え、社会全体の収縮とともに、“息をつく余地”を失った自由は窒息死する。
国家が道徳的中立性を脱ぎ捨て、物理的にも私生活に国家権力の目が張り巡らされる可能性がある。人類が共生のために構築してきた公私の区分が、いとも簡単に、今まさに、決壊している。
【日本型立憲主義・民主主義の再考】
強大な国家権力の“間違いうる権力行使”を抑制することで、私的空間における我ら個人の「間違いうる」ダイナミズム、すなわち一人として同じでない多様な自己の善き生への試行錯誤・トライを保障する。これが立憲主義のプロジェクトであったはずだし、このような個々人の多様な善き生へのトライが保障されていない社会など生きる意味がない。
権力の集中・統合、そして道徳的中立の侵犯は、我々一人一人の多様性を奪い、ひいては我々の社会の多様性を奪う。公的空間と私的空間を切り分けるといっても、結局はその構成員は我ら個人であるから、登場人物は同じであり、公的空間の豊かさは私的空間の豊かさに依存する。権力集中は、一見、統治の便は良さそうだが、権力による価値の選別、単一的道徳観の称揚によって、権力の豊かさの調達源である私的空間が貧困化する。皆が“忖度”と“自主規制”によって萎縮した私的空間もろとも、公的空間も貧困化する。
多様性と寛容さを失った権力、そして社会は、自壊的ですらある。
我々は本当にそんな社会を望んでいるのか?意識的無自覚は最大の罪である。
立憲主義とは“やせ我慢”である。まったく違う価値観を持つ「他者」を承認しなければならない。自己の考える「正しさ」を意図的に相対化し、共生のための熟議を尽くさねばならない。本当は否定したい、正しさを教えてあげたい、という人間の性からすれば、相当にタフな目論見である。多数派(権力の側)にいれば、権力の集中を望むかもしれない。しかし、立憲主義は、常に自己が他者と立場が入れ替わる可能性とその想像力も要求する。だからこそ、「多数派だから」という理由だけでは、立憲主義のテストは通過できない。我々の社会が、生きる意味のある豊かさを獲得するためにも、もう一度、権力の均衡という観点から、日本型立憲主義・民主主義の再定位が迫られている。
昔、学校の教室には「教室は間違えるところ」という張り紙がされていた。
「間違えること」が認められるということは、絶対的な“正解”はないということを意味する。特に道徳については、数字や記号的な正解が存在しない。各人が多様な価値観を有していることを前提に、個々人の道徳観すべてを尊重するということだからだ。国家が教科書を通じて、ある道徳観を奨励すれば、それが“正解”となり、それ以外は不正解となる。画一的な正解の存在は、正解と不正解を分断し、不正解の劣後というレッテルを生み出す。このような「間違えること」のできない教室では、多様性は滅失する。
「教室」は社会の縮図である。教室で起こっていることは、今まさに社会においても生起している。だからこそ、「社会は間違えるところ」こんな張り紙のある寛容な社会を自分たちの手で再構築しようではないか。